塾長は語る |
〜紀伊国屋文左衛門〜
今回は宝船ならぬ蜜柑船にまつわる話をしよう。
文左衛門の墓が、江東区三好一丁目の成等院にある。江戸の三大火事のひとつ明暦大火(振袖火事)の際、木曽の木材を買占めて巨富を築いた江戸中期の豪商である。宝井其角の門人にもなって、俳号を千山といった。江東区の清澄庭園には彼に因んで千山亭がある。
豪遊によって「紀文大尽」といわれた彼の本宅は旧小田原町(中央区)にあったが、家運が衰えてから、富岡八幡宮一の鳥居付近(門前仲町一丁目)に住み、 1734年に亡くなった。
彼の逸話は親子二代に渡 るものともいわれ、伝説的 部分も多い。冒頭の、船で 紀州の蜜柑を江戸に運んだ話 も実は つくり話だ。
〜 山東京伝 〜
1761年、深川木場に生まれた京伝は、江戸っ子の意気・粋(すい)・冴え(さ)を兼ね備えた江戸時代後期を代表するマルチ文化人だった。
浮世絵師としては北尾政演を名のり、20代前半で流行作家となり、1789年の記録では当時発行された黄表紙(黄色い表紙の挿絵入り小説)の35%、洒落本(会話体の滑稽小説)の44%を彼の作品が占めた。 また、随筆「骨董集」は数百の引用書を挙げ、多くの参考図を挿入した百科事典だった。
商人としても名を馳せた彼は、雑貨商や有名な「読書丸」「小児無病丸」を売った薬店も成功させた。
寛政の改革では筆禍(書いた文章の為に社会的 制裁にあうこと)手鎖50日の刑を受けた。
しかし、かえってこのことが京伝の名を世に知ら しめた。晩年まで創作意欲が旺盛で、亡くなる6 時間程前まで執筆をしていたという。
彼は今、両 国の回向院で永遠の眠りについている。
多くの近代都市は川の流域に発達した。ロンドンのテムズ川、パリのセーヌ川の様に東京は隅田川によって生まれた。川の風景は人々の心に癒しをもたらす。春は墨堤の桜、夏は両国の花火、秋は船からの月見、冬は雪景色。
しかし、この川の氾濫は、古来より住民を苦しめた。徳川家康が入府した3日目の1590年8月12日にも洪水の記録がみられる。 幕府は上流の利根川を太平洋に、一部は江戸川を通じて江戸湾に流れる大工事を行なった。洪水の被害が減った隅田川沿岸は蔵屋敷・問屋街・倉庫街・永代橋工場地帯を形成、江戸・東京の経済発展に大きく貢献した。また、隅田川によって隔たれた墨東の地は独特の風土と人情を生み出した。芭蕉・一茶・石田波郷らがこの地で活躍したのも頷ける。
〜墨東ゆかりの人々〜
世界地図に唯一その名を残した日本人は間宮林蔵である。
1775年茨城の農家に生まれた彼は、幕府の命で初めて蝦夷地に渡り、翌1800年、そこで伊能忠敬に出会い測量術を学んでいる。
19世紀の初頭、世界中で実地に探検されていないのは、樺太だけだった。林蔵の長期にわたる調査は困難をきわめ、樺太が、島であることを発見した時、彼の指は凍傷で腐っていた。
50歳を前にした彼は深川を転々とし、幕府の隠密として活躍した。有名なシーボルト事件の告発者としても名を残したが、皮肉なことに林蔵の偉業を世界に紹介し、 樺太・沿海州間の海を'間宮海峡'と命名するよう提案したのはシーボルトだった。満69歳の時、深川蛤町(当ゼミ門仲校付近)で亡くなった彼の墓は江東区平野2丁目にひっそりと立っている。
〜墨東ゆかりの人々〜
伊能忠敬は満17歳で佐原の酒造業伊能家の養子となり、家業を大いに発展させ、満50歳で深川黒江町(当塾門仲校付近) に住居を定めた。彼はここに自費で観測所を作り、幕府天文台がある浅草まで、往復8Kmを5年間ほぼ毎日通った。
そして、子供の頃からの「地球の大きさが知りたい」という夢の為に、西暦1800年満55歳で蝦夷地の測量に出掛けた。これを手はじめに亡くなるまでの18 年間、全国を踏破した距離は、奇しくも地球1周分だった。忠敬がまとめた有名な「大日本沿海與地全図」を幕末に見たイギリス人は、その精密さに驚嘆、日本沿岸の測量を途中で中止したほどでだった。
忠敬が測量のたびに無事を祈願した、富岡八幡宮境内に彼の像が立っている。
小学生も知っている松尾芭蕉が門人の杉山杉風の持っていた深川六間堀(江東区常盤)の番小屋に住んだのは1680年冬のこと。 有名な「古池や」の句は1686年春に、ここ芭蕉庵で詠まれた。蕉風開眼の句である。
そして、その3年後には庵近くに新大橋が架けられた。 彼は橋の完成を大いに喜び、「みな出で橋をいただく霜路哉」と吟じている。 1694年夏、草庵を出た芭蕉は、この年秋、大阪で50歳の生涯を閉じた。
*清澄庭園(紀伊国屋文左衛門邸跡)の南側、海辺橋の際に芭蕉等身大の像が見られる。
海外に漂流した日本人で最も有名なのは、ジョン(中浜)万次郎であろう。土佐に生まれた彼は、1841年鳥島に漂着し、アメリカ船に救助された。マサチューセッツ州の中学を首席で卒業し、日本に戻ったのは1852年、彼が24歳の時だった。1860年には前回紹介した咸臨丸に乗って再び渡来している。 明治に成って、砂村(現在の江東区立北砂小中の附近)の土佐屋敷に住み、開成学校(東大の前身)の教授としてこの地に英語塾を開設した。1880年に彼が転居する迄、当時日本で最高の英語塾が江東区にあったのである。
このシリーズの第1回として、1823年本所亀沢町(現、墨田区両国)生まれ、勝海舟を紹介する。
ペリーの来航からわずか7年後、海舟は威臨丸艦長として渡米した。 帰国後の彼は、幕末を動かした多くの人材の心を動かしている。 横井小楠・西郷隆盛・坂本龍馬らである。 海舟は幕臣ながら幕府や藩を超えた"国家"を全てに優先させる考えを持ち、江戸城無血開場を実現した。 幕府がフランスに、官軍がイギリスの支援で徹底抗戦をしていたら、江戸中が火の海になり、どちらかの国の思う壺、日本は植民地化されていただろう。
文科省は先月、小中学校の学習指導要領改正案を公表した。 これによって、小学校では算数・理科が、中学校でも数学と外国語がほぼ「ゆとり」以前の水準に戻り、理科は現行の33%増となる。 「ゆとり教育」には二つの大きな問題があった。
一つ目は理科系の教科を中心に授業時間が国際水準に比べて大幅に減ってしまった。 国語の面では「聞く・話す」に重点が置かれ、「読む、書く」が疎かにされてしまった。
二つ目は子供の自主性に重きを置き、学ぶべき知識を軽視しすぎた点だ。 つまり、ゆとり教育は「出来るだけつらいことは避けたい」という現代の風潮に教育行政が阿った結果である。
最後に神奈川県が、全県立高校で日本史を必修にすると発表した。 国際化が進む中、自国の歴史や文化を深く理解することは至極当然の事である。 この動きが全国に広がることを切望する。